中国での生活

留学に至るまで

中国人とスムーズにコミュニケーションが取れるようになりたい…。

そんなことを思うようになったのは、3度目の訪中・1998年秋の、フフホト―北京の旅の時だった。
北京動物園観覧の後、万里の長城・明の十三陵を巡る観光バスに乗った時のこと。私は大連で留学しているという学生たちと一緒になった。
長城で土産のTシャツを買おうとした際、値段交渉がうまくできない。私は、留学生たちに交渉の全てを任せきりにしてしまった。

――情けなかった。悔しかった。
子供の頃からの中国好きで、大学でも第2外国語とはいえ、中国語を学び、3度も中国旅行に来ているというのに、自分の中国語力は、この程度か。
会社勤めするようになって、中国とは関係ない仕事をし、3年半も中国語から離れていたのだから、仕方がないと言えば仕方がない。にもかかわらず、私は言いようの無い自己嫌悪に襲われてしまった。
しかし、この時はまだ「留学したい」と思うまでには至らなかった。(今回留学先を大連にしたことと、その時の彼らの留学先が大連だったこととは、直接の関係は無いのだが、今にして思えば不思議な巡り合わせだ)

それから1年少し後、私はこのサイトを開設した。当初は、中国だけにこだわってはいなかったのだが、更新を進めれば進めるほど、中国色が強まっていく。サイト名も「深夜鈍行」から「憧れの大地へ」に変更した。
やはり私にとって、中国は特別な国だったのだ――今更ながら、再認識させられた。

Web開設の他にも、パソコンを、インターネットを始めたことは、また別の方向から私に影響を与えていった。Web作成の参考に、という意味もあって、いろいろな中国旅行関連のサイトをのぞいてみたが、その中に幾つか、仕事を辞めて中国留学に飛び出した、或いは飛び出すことを決意した、という、私と同世代の人たちのサイトがあった。
――羨ましいな。
そんな気持ちが、知らず知らずのうちに強くなっていった。しかし、それでもまだ「仕事を辞める」という発想は、私の心の中には現れなかった。
決定的な契機になったのが、中国旅行関連のメーリングリスト(ML)に参加し、さらに、2000年7月、そのオフ会に出席したことだった。

そのオフ会には、中国に深く関わった生き方をしている面々が、顔をそろえていた。頻繁に中国出張をしている人、中国旅行のオフィスを経営している人、中国人女性と国際結婚をした人、中国全省の省都を訪れた人…。そんな中で、私はただただ小さくなるばかりだった。さらに2次会では、皆カラオケで中国語の歌を流暢に歌う中、私は日本語の歌を歌ってお茶を濁すしかなかった。
――自分は、何て中途半端な中国愛好家なんだろう。
もはや、自己嫌悪という一言では済まされなくなった。中国と直接関わらずに生きている自分が、許せなくなっていた。

その数日後、名古屋市内の大手書店に来ていた私は、気がつくと「留学」のコーナーに足を止めていた。そして気がつくと、中国留学の本を手にして、レジに向かっていた。
――会社を辞めてでも、中国に留学したい。
この時初めて、明確にそう思うようになっていた。

決意してしまうと、その後の行動は早かった。情報を本やインターネットで入手し、行き先を大連の東北財経大学に絞りこみ、入学要綱を取り寄せたりと、留学準備を着々と進めていった。
そして9月下旬、重慶―三峡―赤壁―武漢を巡る中国の旅を経て、「中国人とスムーズにコミュニケーションが取れるようになりたい」という思いは、さらに強くなった。
11月、実家の家族に半ば事後報告の形で、留学の決意を打ち明けた。
さすがに最初は驚き、渋い表情をされたが、私の決意が固いことを見て取ると「そんなにやりたいんだったら頑張ってきなさい。うち(母方)の家系は、中国かぶれが多いことだし」と、バックアップを約束してくれた。

残る唯一にして最大の問題は、会社を辞職することだった。留学を決意した後も、このことだけは迷いを完全に振り切ることができなかった。仕事はやり甲斐があり、給与も待遇も、世間並みから言えば格段にいい。留学を終えた後、確実に仕事にありつけるという保証も無い。
悩みに悩んだ。5か月で、体重が7kg減ってしまった。そんな私の様子に気がついた職場の先輩が、私に声をかけてきた。
「何か悩みでもあるのか? あるんだったら言ってみろ」
ちょうど、そろそろ言おうかと思っていたところだった。私は、どんな反応をされるかと不安に思いながら、先輩に打ち明けた。
中国に留学したいので、会社を辞めようかと思ってます
すると、意外な反応が返ってきた。
「何だ、そういうことか。自分の夢を追い求めるのに、何を迷う必要がある
この一言で、今まで心につかえていたものが、スッと取れたような気がした。もう迷いは無い。あとは前進あるのみだ。
部長にもその旨を報告し「年内いっぱいで辞めたい」と申し出たが、「人事の都合で年内は無理だ。1月前半まで、勤務してくれないか」と要請された。
2月16日の出発を予定しているので、自由な時間1か月で準備が整うか、ぎりぎりの線だったが、止むを得ない。
私の退職期日は、2001年1月15日となった。そして11月末、私は東北財経大学に願書を郵送した。

年が明けて1月12日、勤務が終わった後、同僚たちが送別会を開いてくれた。個人的な都合で辞めていくというのに、皆温かく、エールを送ってくれる。
酒が進むにつれ、同僚たちが得意の(?)駄洒落合戦を繰り広げる。それを聞きながら、私はポツリと言った。
中国語で駄洒落が言える位、上達して帰ってきたいですね
今になって考えれば、大風呂敷を広げすぎた気もするが、やるからにはそれ位の気構えが必要かもしれない。
別れの儀式が終わり、皆と握手をしながら、私はこみ上げてくるものを抑えるのに、一苦労した。
翌13日、煩雑な手続きと最後の勤務を経て、私は7年間勤めてきた新聞社を後にした。

それから1か月、多忙な日々が続いた。留学先に持っていくものをまとめ、ビザを申請し、必要な所に(日本の実家への)住所変更届を出し、愛車を売り払い、NHKや電話を止め、海外移住届を出し、残った荷物をトランクルームに預け…。(詳細は「留学の準備」で)

そして2月16日、天津経由で大連へと向かうべく、私は神戸発のフェリー・燕京号に乗り込んだ。

(「世界への旅天津―大連」に続く)

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