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        世界を目指しての旅行記ほか by カズ@憧れの大地 

世界への旅(旅行記)

中国・河北、河南

  許昌・2 ~はるか遠い受禅台

2004年5月5日

前回の許昌訪問時からずっと思っていたのだが、この街は「魏都電視台」などの名前にもあるように、かつての魏王国の都であるにもかかわらず、街中の旧跡は蜀の関羽ゆかりのものばかりである。郊外に行くと魏の武将の墓が幾つかあるが、私は故人がここに眠っている、という場所よりも、ここでかつて大きなイベントがあった、という場所に行きたい。
そこで目指したのが受禅台だ。曹操の息子・曹丕が漢の最後の皇帝・献帝から禅譲されて魏の初代皇帝となった儀式が行われた場所といわれる小高い丘が、許昌から南へ20kmほど行った繁城鎮にあるという。
しかし、そこへ行くための手掛かりは、インターネットで入手した簡単な地図だけだ。果たして見つけることができるであろうか。

駅前から3路のバスに乗り、蒋李集鎮という所でバスを降りる。そこから暫く行って右折し、さらに突き当たりを左折して直進すれば、受禅台に到着できるはずである。私は何も考えずに、そのまま歩き始めた。
第2段階の左折ポイントに到着。略地図を見ると、先程の右折ポイントからここまでと同じ程度の距離を歩けばよさそうだ。目的地はもうすぐだ、と考えてやはり歩き続けた。
しかし、行けども行けども繁城鎮らしき場所が見えてこない。バスが通り過ぎても、きっともう少しだ、とそのまま歩き続けることを繰り返しているうちに、そのバスすら通らなくなってきた。周りは小麦畑ばかりで民家もまばら。こんな所に流しのタクシーやバイクタクシーの客引きなどもあるはずがない。歩くという手段をとったことを後悔した時はもう遅かった。こうなったら最後まで歩き通すしかない。

バスを降りてから2時間ほど歩いただろうか。ようやく街らしきものが見えてきた。繁城鎮である。
この鎮は回族鎮のようである。それでも街中にはキリスト教の教会があったりして、ここが回族の街だとはにわかに感じることはできない。
受禅台は幹線道路を南下して右側にあるらしいので、右側に注意を払いながら歩いていると、民家の向こうに小高い丘が見える。民家を突っ切っていくのは失礼なので、少し戻って奥に向かう路地に入った。するとそこに、あった。受禅台である。
受禅台
受禅台
長時間歩き続けた疲れも忘れて、丘に登ってみた。ここで、漢朝が終焉を迎え、三国時代が幕を開けたのだ――飽くまで小説「三国志演義」の中での話しだが。

丘を下りて、いいアングルがないかとあちこち移動してみた。そして、細い川の岸で写真を撮っていると、地元の男性が私を呼び寄せるので、そちらに行ってみた。
「受禅台を見に来たんだろ? こっちから見るといいよ」
男は、私がさっき遠慮して通らなかった民家を突っ切っていく。折角だからついて行くと、確かにいい角度で見ることができる地点に出た。
「この場所は、三国演義で曹丕が献帝から帝位を譲られた場所で
いや、それは分かっている。と言うより、そもそもそのことを知らない者が、わざわざこんな所まで来て写真を撮っているはずが無かろう。
やがて男は、丘に登るよう私を促す。さっき下りたばかりなのだが、何か話を聞けるかもしれなかったので、また登ることにした。
受禅台の上から見える風景を見ながら、男は私に説明する。
「この丘は、以前はもっと大きくて、あの川の側まであったんだけど、今では小さくなってしまった。石碑もあったんだけれど、壊されてしまったんだよ」
それは、文革のあおりによるものなのだろうか。そのようにして無くなっていった旧跡は中国には多い。しかし、熱心に説明する彼の姿、そして気が付いてみると大勢集まって男の話に耳を傾けている地元住民たちの関心の高いさま見ていると、彼らがいればこの遺跡も大丈夫なのでは、と期待させられる。

ここ繁城回族鎮と許昌の間には、直通のバスが通っていた。来る時に散々苦労した道を、帰りはものの30分で済んでしまった。
まだまだ情報収集が甘い。今後の課題としなければなるまい。

ただ、後になってから気づいたのだが、私がネット上で入手した地図は、どうやら蒋李集鎮近くの伏后塚、徐庶母墓と受禅台を、タクシーや輪タク等を利用してセットで回ることを前提にしているようなのだ。
しかし、上にも書いたように、私は墓にはそれ程興味が無く、増してや埋葬されているのが曹操暗殺の謀略が知れて処刑された伏皇后、それから、自分が人質に取られたという理由で息子の徐庶が劉備のもとを離れて曹操陣営に来たことを嘆いて自殺した、と「三国演義」に書かれている(史実ではない。典型的な曹操イメージダウンのためのでっち上げエピソードである)徐庶母となると、見に行こうという気は微塵もわかない。
それにしても“曹操の街”とも言うべきこの許昌で、曹操=悪ということを強調するような人物の墓を保存するという発想が理解できない。特に、史書にも書かれていない徐庶母(徐庶ですら史書「三国志」には伝が立てられていない端役である)がどこに埋葬されているかなど分かるはずもないと思うのだが

注:繁城回族鎮は許昌市ではなく、隣接する臨頴県の、許昌との境界区域に位置する。とはいえ、許昌のすぐ近くであり、受禅台は許昌の遺跡群の一つに数えられるため、タイトルは「許昌・2」とした。

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