世界への旅(旅行記)
広州、深圳・1 ~16年ぶりの街
旅の第一歩である香港から、深圳に抜ける。しかし、ここでの滞在は考えていない。翌日の列車チケットを確保するとすぐ、広州へと向かった。
深圳から広州のルートといえば、16年前の初旅行の時に現地旅行社の手違いで予定の列車に乗ることができず、別の列車のデッキに座って行かされたことが思い出される。今回は自分でチケットを確保し、何のトラブルも無く行くことができた。
乗った列車は、この年の4月の大ダイヤ改正で新登場したD列車。深圳-広州間約150kmを最高時速200kmで僅か1時間程度で走る中国版新幹線だ。編成は1等・2等の軟座で、私は2等のチケットを買ったが、さすが新幹線。76元という、距離を考えると割高な値段だった。
深圳から広州のルートといえば、16年前の初旅行の時に現地旅行社の手違いで予定の列車に乗ることができず、別の列車のデッキに座って行かされたことが思い出される。今回は自分でチケットを確保し、何のトラブルも無く行くことができた。
乗った列車は、この年の4月の大ダイヤ改正で新登場したD列車。深圳-広州間約150kmを最高時速200kmで僅か1時間程度で走る中国版新幹線だ。編成は1等・2等の軟座で、私は2等のチケットを買ったが、さすが新幹線。76元という、距離を考えると割高な値段だった。
10時前、広州東駅に到着。実に最初の中国旅行以来、16年ぶりの訪問である。
今回の旅では、中国でユースホステル(YH)が増えてきていたことから、YHの会員証を作ってきた。ここ広州にもYHが少なくとも2件ある。まず珠江ほとりにあるYHに行ってみるが、既に満室。それなら広州駅横にあるもう1件にと、広州駅方面に行くバスに乗ったが、広州駅が見えたかと思うとそのまま通り過ぎてしまい、駅からかなり離れた所でやっと止まってくれた。重い荷物を背負っていたので1区間だけとはいえまたバスを使ってようやく広州駅に着く。今回の旅最初の失敗となってしまった。
次のYHは空きがあった。YHとはいってもドミトリーは無く、シングルルームとなったが、それでも60元とまずまず安い宿に入ることができた。
時刻は正午。広州に着いてから宿探しだけで2時間も費やしてしまった。
次のYHは空きがあった。YHとはいってもドミトリーは無く、シングルルームとなったが、それでも60元とまずまず安い宿に入ることができた。
時刻は正午。広州に着いてから宿探しだけで2時間も費やしてしまった。
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| 越秀公園の(上)五羊像 (下)広州博物館 |
少しだけ休んで、広州の駅前広場に出る。
16年前のこの場所は、香港を目指す出稼ぎ労働者で溢れ返っていて、"カオス(混沌)"という言葉がぴったりくる猥雑さだった。しかし今では、人は相変わらず多いものの、貧しさをむき出しにした労働者の姿は激減していた。都市部を中心に生活が向上したこと、香港が返還されたことなどが関係しているのだろう。
16年――街が、社会が大きく様変わりするには十分な年月だった。
16年前のこの場所は、香港を目指す出稼ぎ労働者で溢れ返っていて、"カオス(混沌)"という言葉がぴったりくる猥雑さだった。しかし今では、人は相変わらず多いものの、貧しさをむき出しにした労働者の姿は激減していた。都市部を中心に生活が向上したこと、香港が返還されたことなどが関係しているのだろう。
16年――街が、社会が大きく様変わりするには十分な年月だった。
そのまま歩いて、越秀公園へ。
広州市のシンボル的存在である羊の群像・五羊像などを見て回るが、私の記憶の中にはインプットされていなかった。
ここには来たことがなかったかな?と思っていたところで、鎮海楼という古い建物を利用した広州博物館に行き当たる。ここで、私の記憶が蘇った。これは見たことがある。間違いなく、この公園には来たことがあったのだ。
しかし、何が展示されていたかまでは記憶に無かったので中に入ってみたが、やはりここでの記憶は蘇らない。中に入っていなかったから記憶に無かったのか、大したものが展示されていないから記憶に無かったのか、結論は出ていない。
広州市のシンボル的存在である羊の群像・五羊像などを見て回るが、私の記憶の中にはインプットされていなかった。
ここには来たことがなかったかな?と思っていたところで、鎮海楼という古い建物を利用した広州博物館に行き当たる。ここで、私の記憶が蘇った。これは見たことがある。間違いなく、この公園には来たことがあったのだ。
しかし、何が展示されていたかまでは記憶に無かったので中に入ってみたが、やはりここでの記憶は蘇らない。中に入っていなかったから記憶に無かったのか、大したものが展示されていないから記憶に無かったのか、結論は出ていない。
越秀公園そばにある中山紀念堂にも足を運んでみる。ここは間違いなく、以前にも訪れている。ただ、あの時はろくな写真を撮っていなかったので、写真の撮り直しという意味もあって再訪問した。
"中山"とは孫中山=孫文のこと。孫文はここ広東省出身の、"中国革命の父"である。敷地のほぼ中央に、彼の銅像が立てられていて、その背後に紀念堂が建っている。
紀念堂入り口の上には「天下為公(天下をもって公となす)」の文字が書かれた看板が掲げられている。
ただ、孫文は漢民族中心主義者であり、彼にとって"公"とは何だったのか、疑問が残る。
"中山"とは孫中山=孫文のこと。孫文はここ広東省出身の、"中国革命の父"である。敷地のほぼ中央に、彼の銅像が立てられていて、その背後に紀念堂が建っている。
紀念堂入り口の上には「天下為公(天下をもって公となす)」の文字が書かれた看板が掲げられている。
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| 中山紀念堂 | |
しかし、暑い。日がじりじりと照りつけてくる。広東ほどの南方になると5月で既に夏の暑さである。
このままでは歩き回れないと思い、近くの店に入って帽子を買う。(この後、私は旅の中で何度も帽子をなくしては新しいものを買うということを繰り返すことになる)
このままでは歩き回れないと思い、近くの店に入って帽子を買う。(この後、私は旅の中で何度も帽子をなくしては新しいものを買うということを繰り返すことになる)
駅方面へ戻る形で歩いていくと、西漢南越王墓博物館がある。即ち、この地域に栄えた南越国の中国で言う西漢(前漢)時代の王・文帝の墓が発見された場所に建てられた博物館だ。
内部に入ることのできる石室も興味深かったが、それ以上に圧巻だったのが展示されていた副葬品の数々。質も紀元前のものとは思えないほど立派だが、量も、それ程大きいとも言えないあの墓にどうやってこれだけ収めたのだろうかと思ってしまうほど豊富にある。漢に比べれば小国だった南越だが、決してあなどることはできない。
内部に入ることのできる石室も興味深かったが、それ以上に圧巻だったのが展示されていた副葬品の数々。質も紀元前のものとは思えないほど立派だが、量も、それ程大きいとも言えないあの墓にどうやってこれだけ収めたのだろうかと思ってしまうほど豊富にある。漢に比べれば小国だった南越だが、決してあなどることはできない。
そのまま歩いて宿へ。暑い、暑いと言っていた割には、この日の街巡りは全て徒歩だった。



